三月の風が、まだ少しだけ冬の記憶を含んでいる。
佐藤拓海は、毎週月曜日の朝6時45分にロードバイクのペダルを踏み出す。世田谷の自宅からオフィスまで、約14キロ。環七を避けて裏道を走り、駒沢通りに出て、代官山を抜ける。信号の少ないルートを選んで走れば、40分ほどの道のりだ。
こめかみに混じり始めた白髪が、ヘルメットの隙間から春風に揺れる。38歳。広告代理店で7年、SEOコンサルティング会社で5年。その経験のすべてを注ぎ込んで、今は京谷商会SEOマーケティング部の部長を務めている。
切れ長の目が、ペダルのリズムに合わせて前方を見据える。GarminのスマートウォッチがLiving Zoneの心拍を示す。身体は引き締まり、ネイビーのサイクルジャージの下でしなやかに動く。
月曜日の朝が好きだ。一週間の始まりには、まだ何も決まっていないという自由がある。
7時25分。オフィスビルの駐輪場にロードバイクを停め、着替えを済ませてフロアに出る。イタリアンカラーのグレーのシャツに袖をまくり、いつものスタイル。
フロアは無人のはずだった。
だが、ひとつのデスクだけに青白い光が灯っている。
高橋美咲。
漆黒のストレートヘアをローポニーテールにまとめた彼女は、画面に映るスプレッドシートの海に沈んでいた。163センチの華奢な体が、モニターの光に照らされている。細いシルバーフレームのスクエアメガネが、データの反射を受けて冷たく光る。左目にかかる長い前髪の向こうで、漆黒の瞳が数字を追いかけている。
佐藤が入ってきたことにすら気づいていない。
「高橋さん、おはよう」
「......あ」
数秒の間があって、顔が上がった。チームで最も優秀なデータアナリストは、チームで最も会話のスロースターターでもある。
「おはようございます。先週のSearch Consoleに興味深いパターンが出ていまして」
口元だけがかすかに動く。視線はもう画面に戻っている。佐藤はそれ以上何も言わず、給湯室に向かった。高橋の集中を邪魔しないことは、もう何年も前に学んでいる。
コーヒーミルにエチオピア・イルガチェフェの豆を入れる。この豆は加藤誠一が自家焙煎したものだ。全プロジェクトの技術基盤を統括するテックリードでありながら、毎月月初にオフィスに焙煎したての豆を届けてくれる。黒のタートルネック、ミニマルな黒メガネ、そしてコーヒーへのこだわり。加藤の美学は、コードにもコーヒーにも貫かれている。
ゴリゴリ、という手挽きミルの音が静かなフロアに響く。湯を注ぐと、花のような甘い香りが広がった。
「佐藤さん」
高橋がメガネの向こうから声をかけた。
「検索行動のデータですが、先月から特定のクエリ群に面白い傾向が出ています。木曜のチームミーティングまでに分析をまとめます」
「頼む」
佐藤はコーヒーを二つのマグに注ぎ、一つを高橋のデスクの端にそっと置いた。彼女は一瞬だけ視線を上げ、ほとんど見えないほどの微笑みを浮かべた。口角がわずかに上がっただけだが、佐藤にはそれで十分だった。
7時50分。エレベーターの音。
「おはようございまーす!」
中村さくらの声は、オフィスの空気の色を変える。
アッシュピンクのインナーカラーが今日の編み込みの間からのぞいている。両頬にえくぼを刻みながら、紙袋を二つ抱えて駆け寄ってくる。158センチの小柄な体に、花柄ブラウスとワイドパンツ。ゴールドの重ね付けリングが、袋を持つ指でキラキラ光る。
「月曜日限定! 近くのベーカリーで焼きたてクロワッサン、ゲットしてきました。今日は明太フランスもありますよ!」
シースルーバングの向こうのまん丸い目が、宝石のようにキラキラしている。彼女がいるだけで、オフィスのカラーがモノクロからフルカラーに切り替わる。コンテンツクリエイターとしての才能は、記事を書くことだけにあるのではない。
佐藤はクロワッサンを受け取りながら、今週のチームミーティングのアジェンダを頭の中で組み立てる。
8時5分。自動ドアが静かに開く。
180センチの長身に黒いTシャツの大輝。短い黒髪に表情を読ませない切れ長の目。AirPods Proが両耳に入っている。その隣に、ダークブラウンのロングヘアをハーフアップにまとめ、ベージュのジャケットにスカーフを巻いた楓。すらりとしたシルエット。
夫婦でありながら同じ職場で働くこの二人は、もうそのことに特別な感情を持っていない。ただ、大輝の左手薬指と楓の左手薬指に光るお揃いのプラチナの細リングだけが、静かにその関係を語っている。
「おはようございます」
大輝の声は低く簡潔だ。片耳のイヤホンを外し、自席に向かう。楓は対照的に、さくらのクロワッサンの袋を見つけて「わあ、今日もありがとう! 明太フランスいただきね」と温かく声をかけた。佐藤は、この夫婦の「違い」がチームのバランスを整えていることを知っている。
8時12分。ドアがそっと開く。
松本結衣は、いつも世界にそっと入ってくる。
黒髪のぱっつんボブ、顎下の長さ。丸い金縁のメガネ。155センチの小さな体がパステルブルーのゆったりしたブラウスに包まれている。左手の薬指に、水彩絵の具の跡がうっすらと残っていた。昨夜も何かを描いていたのだろう。
クロワッサンに手を伸ばそうとして、一瞬ためらう。
「結衣ちゃん、遠慮しないで! 明太フランスまだあるよ?」
さくらの声に押されるように、小さな手が袋に伸びた。「ありがとうございます」。細い声が消え入りそうなほど控えめだが、口元にはちゃんと笑みが浮かんでいる。
佐藤は思う。松本のマイクロコピーが読む人の心に届くのは、彼女自身がいつも「言葉の重み」を感じているからだ。
8時20分。
「遅れました——じゃなくて、聞いてくださいよ!」
田中翔太が、寝癖のダークブラウンの髪と黒い太縁メガネの奥のキラキラした目で飛び込んできた。痩せた体に、今日のTシャツは「I'm not a robot」。チノパンにニューバランスの996。ポケットから、Cherry MX Blueのキーキャップがちらりとのぞいている。
「Core Web VitalsのINPの評価基準が変わるみたいなんです。昨晩ずっと調べてて——あ、メガネ額に乗せたまま忘れてました」
案の定、額の上にもう一つメガネが乗っている。
さくらが「翔太さん、メガネ二つ!」と笑い、高橋が画面越しに一瞬だけ口角を上げた。
佐藤は笑いながら言った。「朝会で共有してくれ」
「はいっ!」
その後も、山本健太がランニングウォッチの記録を確認しながら几帳面に着席し、伊藤蓮が「今週のスケジュール、もう組んであります」とApple Watch Ultraをチラ見せしながら報告した。鈴木あかりが、鞄からCONTAX T2をそっと出してデスクの隅に置き、ヘアバンドを直した。
8時30分。全員が揃う。
佐藤拓海はマグカップを片手に立ち上がった。日焼けした顔、腕まくりしたシャツ、きりっとした太眉。そして、チームの一人ひとりに向ける眼差し。
「今週の方針を話す」
データの海に潜る高橋。場を花で満たすさくら。沈黙でコードを語る大輝。温もりでチームを繋ぐ楓。静かに美を描き出す結衣。好奇心で走る翔太。数字に誠実な山本。段取りの伊藤。物語を紡ぐあかり。
月曜日のオフィスが、本格的に動き始める。
部長の仕事の半分は、戦略や数字の管理ではない。佐藤は知っている。この場所をつくること。この人たちが最高の仕事をするための「場」を守り続けること。それが部長の仕事の、もう半分だ。
クロワッサンの甘い香り。コーヒーの湯気。キーボードの音。そして、少し遅れてやってくる笑い声。
月曜日の朝は、いつもこうして始まる。